メディア紹介

2003年9月5日 朝日新聞

▼宮瀬英治のイラクにおける活動が掲載されました。

本文

国際協力団体「風の会」会長の宮瀬英治さん(26)が、このほど戦地の混乱が続くイラクの子どもたちに文房具などを贈るために現地を訪れた。寄付金と勤め先のボーナスや給与を合わせた70万円。「現地の子どもたちの追い風になりたい」と、宮瀬さんは語る。

宮瀬さんは早稲田大生当時の99年、風の会を設立。大学を休学してアジア各国を1年間放浪した経験から「厳しい状況で生きる子どもたちの力になりたい」と思った。
教材販売会社に勤める。夏休みを利用して、6月13日から22日まで現地を訪れた。

ヨルダンのアンマンで鉛筆2千本、ノート2千冊、消しゴムなどを約 500ドル分購入してからバグダッド入りした。 宮瀬さんが向かったのはバグダッド北東部のサドルシティ(旧サダムシティー)。通訳兼運転手を雇って、地元の小学校を回った。大半の校舎は破壊され、校庭はゴミ捨て場と化していた。 ある学校の校長先生に文具を渡したところ、周囲に集まってきた人たちから「我々にも金を配れ」と要求された。「教育が大事だ。ただ物を上げるのではない。子供の可能性にかけたい」との説明を繰り返したが、興奮して銃を持ち出して来る人も。「まず地域のリーダー役に交渉してから活動を始めました」 文房具以外に黒板や、冷蔵庫の購入、校舎の修理などに資金を充てた。

「ノートや鉛筆はもちろんだが、危険な中こうして来てくれた、その気持ちがうれしい」 校長からそう言われた時、「本当に来てよかった」と感じた。 「ぎりぎりの状況の中で生き抜いている子どもたちを、これからも援助し続けていきたい」

2003年10月16日 朝日新聞

▼宮瀬英治のイラクにおける活動写真(略奪された学校支援)が掲載され「2003年度読者の写真代表作(東京)」選ばれました。

2004年 朝日新聞

▼宮瀬英治のイラクでの活動が掲載されました。

本文

▼国際協力団体「風の会」会長で会社員の宮瀬英治さん(26)=東京都板橋区=が、 イラクのバグダッドを近く再び訪ねる。現地では日本の外交官2人が殺害されるなど治安は悪化している。
あえて危険を冒すのは、この夏に出会った子供たちとの再会の約束を果たし、元気づけるためだ。

今年6月、夏休みを利用してバグダッド東部のサドルシティー(旧サダムシティ―)を訪れ、 小学校を20校ほど回った。学校は荒れ、校庭には机やいすの残骸が散乱していた。

それでも子供たちは口々に「勉強したい」と言った。
自分のボーナスと支援者からの寄付を合わせた70万円で買った鉛筆やノートを配った。
「医者になりたい」「私は先生」。希望を失わない子供たちの笑顔が胸に残った。帰り際に約束した。
「また来るからね」

イラクでは1歳ぐらいの女児とも出会った。鼻の奥に腫瘍があるといい、「助けてほしい」と父親に懇願された。
手持ちの資金はすでに尽き、何もできずに別れた。父親の無念そうな顔が頭を離れなかった。

今回の訪問では校舎の修復に加え、この女児の治療も実現させたいと考えている。
用意した資金は自分のボーナスと寄付の計約100万円。
「今イラクに行くのは正直言って怖いが、怖さに勝る思いがある」と宮瀬さんは話している。

2004年2月 朝日新聞

▼宮瀬英治のイラクにおける活動が紹介されました。

本文

東京や岡山を拠点に中東やアジアの子どもたちを支援している国際協力団体「風の会」会長で、会社員の宮瀬英治さん(27)=東京都板橋区=は12月下旬から1月上旬にかけて、イラクのバグダッドを訪れ、文房具や医薬品を届けた。「子どもたちの顔を直接見ながら、『頑張れ』と応援する思いを伝えたかった」という。

イラク時間1月1日午前0時。バグダッド市内のホテル4階の1室で眠っていた宮瀬さんは、鳴り響く銃声に跳び起きた。空が赤く光っていた。『また空襲が始まったのか』と思い、恐る恐る窓の外を見ると、大勢の男たちが空に向かって機関銃を撃っていた。手荒い新年の祝いだった。流れ弾を避けるため、冷蔵庫の影に隠れて過ごした。銃声は30分ほど鳴りやまなかった。

昨年12月24日、成田空港を出発した。半年前にも、会社の夏休みを利用して、バグダッドを訪れていた。鼻の奥に腫瘍がある1歳くらいの女児に出会ったが、この時に果たせなかった治療を実現するのが、今度の旅の目的だった。 「危険すぎる」「いまは行かないで」。出発前、家族や友人たちの猛烈な反対にあった。日本の外交官2人が殺害された11月末以降、連日のように現地の治安悪化が報じられていた。「万が一のことがあれば、みんなに迷惑がかかる」と直前まで迷ったが、早く女児の治療を実現したい思いが勝った。 ヨルダンの首都アンマンから陸路でバグダッドへ。「国境を越えたら地獄が待っているんじゃないか」。何度も不安がよぎった。

バグダッドの空気は半年前とは一変していた。爆薬を積み、車ごと突っ込むテロを避けるため、大きな建物の前には急ごしらえのコンクリート壁が建てられていた。銃を手にしたまま市内を歩く市民の姿も目立った。郊外にあるサドルシティー(旧サダムシティ―)の小学校を、毎日のように訪れた。フセイン政権下で抑圧されたシーア派の住民が多く、低所得者層が多いとされる地域で、米軍も各国のNGOの姿もほとんど見られなかった。
校庭にサッカー場を作るように提案した。校長は「ひと月もすればグランドのひと月もたてば、グランドの土まで盗まれてしまうだろう」。断念せざるを得なかった。

校長らとの話し合いで、文房具や暖房、電球などを贈ることに決めた。会社のボーナスと寄付を合わせた140万円のほとんど文房具代に使った。1冊80枚のノート3万冊に、鉛筆2万5千本。むやみに学校に配っても、盗みや略奪の対象になりかねないため、倉庫を借り、月に1度、学校の先生が取りに行く仕組みにした。

腫瘍がある女児の行方や安否はわからなかった。その代わりに、日本人のうわさを聞いた親たちが聴覚に障害のある3人の子どもを連れてきた。14歳の少女は先天的な障害で両耳がふさがっており、ほとんど聞こえなかったが、耳を切り開く手術をするよう手配して別れた。医師の診断では、残る2人は手の施しようが無かった。「医者になって、貧しい人たちを助けたい」という夢を話していた少年とも半年ぶりに再会した。「頑張っているか」と尋ねると、少年は自分の拳で胸をポンとたたいて行った。「約束通り、頑張っているよ」。誇らしげな笑顔に報われた思いだった。

旅の途中、現地の男性と日本の自衛隊派遣について意見を交わす機会もあった。「米国と同じかだから、日本のアーミーが来るのは反対だ。でも、お前みたいなやつは歓迎するよ」 仕事始めの1月5日午前、成田空港に到着。その足で会社に向かった。

13日前の旅を終えた今、宮瀬さんはこう思う。 「一人ひとりの顔を見ながら、ささやかでも、確かな幸せを贈ることができるのなら、それが本当の復興につながるはずだ」

2004年3月 読売新聞

▼宮瀬英治のイラクにおける活動と中学生に対する授業が紹介されました。

本文

イラクの子供たちを勇気づけようと、文京区第十中学校(千石2、中村馨校長)の生徒らが、 市民団体を通じてイラクの首都・バグダッドの中学校に絵を贈った。
そのお礼の絵とメッセージがこのほど届き、 17日の授業で同校の生徒たちに報告された。両国の同世代の子どもたちが言葉の壁を超えて、国際交流への一歩を踏み出した。

交流を仲立ちしたのは、早稲田大学の学生サークルを母体に発足した市民団体「国際協力風の会」。同会は、カンボジアやイラクなどの子どもたちの医療、教育支援に取り組む。同校では「生徒が国際社会に目を向けるきっかけにしてほしい」と2003年3月から同会の協力を得て、カンボジアの現状報告などを授業に取り入れている。

2005年 朝日新聞

▼宮瀬英治の中学校への出張授業が掲載されました。

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イラクの子どもたちにノートや鉛筆を送る活動を続けている東京都内の男性会社員が16日、藤沢市の中学校の生徒たちに、イラクの子どもたちが 書いた手紙や絵を届けた。1年ほど前、この中学の生徒たちが送った手紙への返事だ。

藤沢市第一中学校を訪れたのは、東京都板橋区の宮瀬英治さん(29)。教育系出版社で広告の営業担当。
会社のボーナスを充てて、バグダッドの4つの小中学校に、毎年約3万冊のノートや 2万5千本の鉛筆、医薬品を送る活動を2年前から続けている。

04年暮れに、宮瀬さんは一中の3年生がイラクの子どもたちに向けて書いた40通ほどの手紙を携え、 ヨルダンを訪れた。活動に協力しているイラク人を通じて、バグダッドに届けてもらった。
バグダッドを訪れた前の年に現地の学校の校長の1人から「子どもたちを元気づける方法はないか」と頼まれた。
帰国後、知人を通じて紹介してもらったのが、一中の佐々木柿己校長だ。

佐々木校長は快く引き受け、生徒たちは「友だちになろう」「大変でしたでしょうが、がんばって」 「LOVE&PEACE」といった手紙を書いた。世界平和を願った、ジョン・レノンの「イマジン」の歌詞を 英語で書いた生徒もいた。

宮瀬さんは、この日、イラクから戻ってきた80通ほどの手紙を学校に届けた。「助けてくれてありがとう」と 書かれたアラビア語の手紙には、民主化に期待するように、投票箱にイラクの国旗を投じている絵が書かれていた。

戦時下を表すように、ヘリコプターが飛ぶ中、車や建物が燃え、人が血を流して倒れている絵もあった。
「実際に目にした光景なのだろう。子どもが負った精神的なダメージを感じる」と宮瀬さん。

宮瀬さんは1年生の生徒を前に、現地で撮影した写真を見せながら、イラクでの体験を語った。
イラク人スタッフからの「平和に暮らせることの尊さを知り、イラクの友達のことを忘れないで」との メッセージも読み上げた。

1年3組の川鍋夏生さん(13)は「イラクは、すごく遠いのに、つながっているんだなと実感できた」と 感想を語った。

佐々木校長は「教科書ではわからないことを学ぶ、いい機会になった。生徒たちには、同じ年代の若者として 人の痛みに目を向けてほしい」と話していた。

2004年2月11日 朝日新聞

▼宮瀬英治の岡山での授業が掲載されました。

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東京や岡山を拠点に、アジアや中東の子どもを支援している国際協力団体「風の会」会長で会社員の宮瀬英治さん(27)=東京都板橋区=が 10日、岡山市宇野小学校でイラクの子どもの現状について授業をした。

宮瀬さんは昨年末から1月上旬にかけ、イラクのバグダッドを訪問。郊外にある小学校にノートや 鉛筆などを支援し、宇野小の児童らが描いた絵や手紙も届けた。

2時間目の授業。6年生の児童約160人を前に、スライドで現地の写真を見せながら、 戦争による混乱で十分な教育を受けられないイラクの子どもたちの現状を語った。
現地で自衛のために身に着けていた防弾チョッキを実際に男児に着てもらい、 「テレビやゲームの世界とは違う、現実だという事をわかってほしい」。現地の子が描いたイラクと日本の国旗 が並んだ絵なども紹介。

最後に「イラクの子どもたちは、厳しい現実の中でも夢を持って生きている。みんなも、やりたい事を見つけて前に進んでください」と呼びかけた。

3時間目は6年D組で質問を受けた。「平和ってどういう事ですか」という児童の問いかけに、宮瀬さんは 「普通にご飯が食べられる当たり前の事が、かけがえの無いことだと気付くことが大切」と答えた。渡辺凌太君(12)は「いつかイラクの子どもたちと 会って、今は大変だけど、きっといい日が来るよと励ましてあげたい」と話していた。

2004年2月27日~2004年3月3日 テレビ大阪系 番組「ボランティア21」(9:30~)にて宮瀬英治が出演しました

2002年1月30日 朝日新聞

▼宮瀬英治のアフガニスタンにおける活動が紹介されました。

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アフガン難民のキャンプ訪問 新たな支援探る   粗末な土の家、粉ミルクに殺到するやせ細った子どもの暗い目ー。
国際協力団体「風の会」代表の宮瀬英治さん(24)=岡山市=がパキスタンで見てきたアフガニスタンの難民の現実は、想像よりもはるかに厳しかった。

昨年末からペシャワール近郊の難民キャンプや孤児院5ヵ所を訪問し、食糧や文房具を提供したが、「砂漠に水を注ぐよう」と無力感が残った。しかし「自分たちができる次を考えたい」と支援の具体化を練っている。

会は00年4月、カンボジア支援のために早大の学生らが結成。宮瀬さんは就職で岡山市に来た。アフガン難民の支援策を探るため、年末年始の休暇を利用して現地を訪れた。実情に合った必要物資調達するため、支援物資は現地でポケットマネー約15万円分を購入した。 最もひどかったのは、アフガン国境近くの難民キャンプ。ペシャワールから通訳兼運転手と兵士を雇い、カイバル峠を越えて向かった。

土の家から殺到してくるやせた難民たち。厳しい寒さながら、みな汚れた薄着だった。運んでいた粉ミルク200箱は全く数が足りない。幼い順に渡すことにしたが、子どもたちは弟を抱き、妹の手を引いて集まってきた。生きるため懸命な姿が印象に残った。物資をもって再訪問しようとしたが、治安上、ペシャワール市外にでることを許されなかった。 難民の一人から「外部から初めて来た人」と言われた。国際社会は東京で開いたアフガン復興支援会議で総額6千億円以上の支援を決めたが、宮瀬さんは「あのキャンプは、存在すら把握されていない。本当に必要な所に支援は届くのだろうか」と心配する。

孤児院兼学校には全児童1500名分のノート、鉛筆、消しゴム、小型黒板など文房具セットと小麦1トンを贈り、現地で活動する非政府組織も視察してきた。宮瀬さんは「私たちのような小さな会は金も技術もないけど、必ずできることがある」と決意を新たにしている。会は、活動の協力者を募っている。

2005年6月 朝日新聞

会長宮瀬英治が英語教育支援事業について取材を受けました

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英語は未来への扉を開く「マスターキー」だ。カンボジアで、こんな言葉を耳にする。 1日2ドル以下で生活する人が8割近い国で、貧しさから抜け出し、自立する早道は英語を身につけること。 公教育が十分でない中、NGO(非政府組織)などは英語教育を支援の柱の一つに捉える。

~中略~

北西部の街バッタンバン。 ノリア寺院の中になる孤児院では親を亡くした子どもや、貧困などで親元を離れた43人が暮らす。 日本のNGO「風の会」(宮瀬英治会長)の支援で02年6月、英語教育が始まった。

18~20歳の女性6人が高校に通いながら、年下の子どもの世話や食事の用意をし、毎晩1時間の英語の授業に臨む。 下級生の子どもらも「英語を学びたい」と次々に言い出した。 多くの子どもらは孤児院に来るまで学校に通えず、クメール語の読み書きさえできなかった。 「英語を通じ、子どもらの心に希望の連鎖が生まれるように感じる」。 同院のバンサベット僧侶(34)は感慨深げだ。